<ンビラとは>

mbira

・「ンビラ」という名前
ンビラはジンバブエを中心に分布するラメラフォーンです(lamellaphone)。ジンバブエのショナ語では"mbira"と表記されます。日本語では「ンビラ」や「ムビラ」と発音されていますが、厳密に言うと、どちらとも現地の発音とは異なります。
「ンビラ」は木の板に鉄や植物でできた鍵盤状のものが取り付けられた楽器の総称です。そのため、タンザニアの「リンバ」やコンゴの「リケンベ」、日本の民族雑貨屋さんで見かける「カリンバ」などの楽器は、全てショナ語では"mbira"と呼ばれます。「コンガ」や「ジェンベ」、「鼓(つづみ)」などを全て「タイコ」と呼ぶのと同じ感覚です。

Njari

・いろいろなンビラ
ジンバブエ国内には様々な形のンビラがあります。現在ジンバブエでもっとも広くみられるンビラは約24本の鍵盤をもつンビラです。このタイプは、楽器の左半分に上下2段の鍵盤の列が、右側に一段の鍵盤の列があります。このンビラはしばしば"mbira dzavadzimu"(「ンビラ・ザワズィム」<祖先のンビラ>)と呼ばれます。ただし、同じ楽器でも、地域によって名前が異なることもあるし、見た目が同じでもチューニングが異なれば名前も異なることがあります。
「グヮリワ」(gwariva:ンビラの土台となる板)、「ナレ」(nhare:鉄の鍵盤)、「デゼ」(deze:ンビラ専用のヒョウタンなどでできた共鳴器)などの言葉がンビラ本体を指す言葉として用いられることがあります。ニャンドーロ氏族の伝承によると、大昔はンビラは「リンバ」(rimba)、「ンゴマ」(ngoma)、「ツィツァ」(tsitsa)などと呼ばれていたそうです。

Phineas Mashoko

さて、ところ変わればンビラも変わる。ジンバブエ南部のマシンゴ州ビキタには「ンジャリ」(njari)と呼ばれるンビラがあります。ンジャリには29本の鍵盤があります。見た目は、ほぼ左右対称に鍵盤が並んでいます。名ンジャリプレーヤーとして、国際的に有名なのはサイモン・マショコ(Simon Mashoko)です。彼はアメリカ人民族音楽学者ポール・バーリナー(Paul Berliner)の著書"The Soul of Mbira" (1978)で大きくとりあげられ、世界のンビラファンの間で有名になりました。残念ながら彼は亡くなってしまったのですが、現在はその孫(Thomas Chisi, Phineas Mashoko)が細々とンジャリを演奏しています。

ジンバブエとモザンビークの国境の町、ニャマパンダ(Nyamapanda)には「マテペ」(matepe)というンビラがあります。鍵盤は26本です。他のンビラと違い、土台となる板が、カウベルのように空洞にくりぬかれています。低音の利いたマテペの演奏は迫力満点です。

Ringa VillageMatepe


Matepe 

 ニャマパンダでは2つの家族が盛んにマテペを演奏しています。ひとつはカリマ(Karima)家、もうひとつはゾンケ(Zonke)家です。ただ、残念なことに、ニャマパンダ周辺にはマテペの職人が一人しか生き残っていません。その職人はイノキ(Inoki Nyazvigo)さんです。彼は1930年生まれですが、後継者がいません。彼がもし亡くなると、マテペの文化は滅びるのでしょうか。

KarimaMatepeAnthony Zonke

Mbira

<ンビラあれこれ>
ンビラの各部の名称は図のとおりです。チューニングの種類は地域やアーティストによって異なります。西洋音階でのチューニングもできますが、各アーティストのンビラには西洋音階にとどまらない、独特のチューニングがあります。

<リンガ村のアーティストたち>
Ringa Village

・リンガ村の歴史
リンガ村は首都ハラレから南に約80kmのところにあります。リンガ村は1983年にできた再入植地(Old Resettlement Area)です。1980年以前は、ローデシア政符の下で白人の占有地となっていました。かつての白人農場のあとが、いまもリンガ村のあちらこちらに残っています。
白人の入植が開始される19世紀末以前は、リンガ村の周辺に黒人が住んでいました。地元の住民の話によると、ここに住んでいたのは、おもにニャンドーロ(象)氏族の人々だったそうです。今もリンガ村に隣接して、白人の農場があるのですが、その中にはチオタ(シマウマ)氏族の墓があるといわれています。
 1983年のリンガ村への再入植に伴って、周辺部のチオタ地域、ニャンドーロ地域、ンジャンジャ地域から人々が入植しました。リンガ村は9つの集落で構成され、その人口は2000人弱です。村には2つの小学校、1つのセコンダリースクール、診療所、集会所、農業・畜産業事務所などの公共施設があります。村の中心部には電気も通っており、雑貨店では冷えたビールが売られています。

ChibageKurima

・リンガ村の生活
リンガ村は農村です。各家庭には6haの畑と1ha弱の菜園、そして360m²の居住用敷地が割り当てられています。本格的な雨季は11月~3月で、その間は毎日畑仕事をおこないます。
主な農産品はトウモロコシ(chibage)、ラッカセイ(nzungu)、ヒマワリ(sunflower)、豆類、タバコ(fodya)、シコクビエ(zviyo)、です。菜園では各種青物野菜、トマト(dhomasi)、タマネギ(maonions)、カボチャ類(manhanga)、キュウリ(magaka)、ワケギ(shallot)、サツマイモ(mbambaira)、ジャガイモ(batatisi)などが栽培されます。
 家畜としてウシ(mombe)、ヤギ(mbudzi)、ロバ(dhongi)、ヒツジ(hwai)、ニワトリ(huku)、ホロホロチョウ(hanga)、ハト(hangaiwa)、アヒル(dhadha)、イヌ(imbwa)、ネコ(kiti)、イワダヌキ(mbira)、ウサギ(tsuro)、ブタ(nguruve)などが飼われています。ウシは食用以外に運搬や耕作で活躍します。
自給自足に近い生活を送っていますが、現金収入を得るために様々な専門的技術をもっている人が比較的多くいます(建設、屋根葺き、レンガ焼き、工具づくり、狩り、ンビラ演奏・作成、など)。
住民の半分以上はキリスト教徒です。キリスト教徒の中には伝統的な信仰を並行しておこなう人もいますが、伝統的な信仰をおこなっている人は少数です。

Methodist Church Zimbabwe

 

<リンガ村のンビラ奏者>
Samson Bvure

サムソン・ブーレ(Samson Bvure)
1970年、チオタ生まれ。チオタ氏族(シマウマ)。
5歳ごろから兄の影響でンビラの演奏を始める。1986年、教えられることなくンビラの製作を開始。1994年、母の兄弟であるガブリエル・マプフーモ(Gabriel Mapfumo<チコナモンベ氏族>)に弟子入り。ハラレの北50kmのところにある山村、マセンブーラ(Masembura)での生活を開始。ガブリエルは農業、手工業、治療などで生計を立てていました。ブーレはガブリエルから、彫刻、ンビラづくり、ンビラ演奏、ンゴマづくりを習いました。彼の卓越した木彫の技術は、オジであるガブリエルのもとで洗練されました。

ガブリエルとその妻は伝統的な医師、いわゆる呪医(n'anga)でした。週末になると患者が自宅を訪れ、憑依のともなう儀礼が開催されていたそうです。ブーレはそこでンビラや太鼓の演奏を経験してきました。ブーレは儀礼において霊の通訳(mutapi)をまかされていました。ガブリエルにとりついていた霊はモザンビークのチクンダという民族の霊でした。その霊の話す言葉はチクンダ語で、儀礼を訪れるショナの人々には理解できませんでした。ではどうしてショナ族のブーレがチクンダ語を理解できたのでしょうか。そこには不思議な力が働いていたとしか言えません。実は彼が属するチオタ氏族は、その起源をモザンビークに持つと伝えられています。祖霊の導きがあったからか、ブーレにはガブリエルにとりついた霊の言葉がすべて理解できたそうです。

Samson Bvure

[ブーレのンビラ] ブーレのンビラの一番の特徴は、何といっても歯(鍵盤)の模様です。槍のようなデザインは、見た目だけでなく、音にも影響しています。彼のンビラの長く伸びる音は、この槍型のデザインから生まれているといっても過言ではありません。 見た目としては、槍型の歯がもっとも特徴的ですが、彼のンビラのもっとも重要なポイントは横棒(mutanda)と歯を下支えする金属片(zambuko)の調節です。チューニングの狂いにくい、安定したンビラをつくる上で、この調節はもっとも重要です。彼がもとっとも気を使う部分はこの部分です。
最後に、ボディの特徴を挙げます。彼はボディの作成に機械を使うこともありますが、全て手斧(ちょうな:mbezo)を使った手作業で作成することもあります。見た目は機械で作成されたかのように見えるものでも、実は全て手作業で作成されています。
彼がもっとも好むチューニングはニャマロパ(Nyamaropa)と呼ばれるチューニングのB♭と、ガンダンガ(Gandanga)もしくはマウェンベ(Mavenbe)と呼ばれるものです。ニャマロパとガンダンガであれば、高低どのようなチューニングも作成します。ンビラのほかンジャリやマテペ、ンゴマの作成もおこなっています。
サムソン・ブーレ ホームページ

Leonard Chiyanike

レナッド・チヤニケ(Leonard Chiyanike)
1958年、マロンデラ(Macheke)生まれ。ニャクジーズワ(エランド)氏族。
レナッドはリンガでもっとも腕のいいンビラ奏者です。彼はリンガ村のンビラ・グループ「マンダレンダーレ・ンビラバイブス」のリーダでもあります。彼は1964年、父親と兄ジョサイアの影響でンビラを始めました。1968年にはジンバブエ東部のルサぺに移住しました。ルサぺではムジュル家と一緒に祖霊のためにンビラの演奏をおこなっていました。ルサぺでは2011年に亡くなったムセキワ(Musekiwa Mujuru)から多くの曲を学んだそうです。1970年、ふたたびマロンデラへ移住。ここでセクル・ゴラ(Sekuru Gora)と一緒に演奏活動をおこないました。セクル・ゴラはジンバブエのンビラ界で、もっとも偉大な奏者でありシンガーの一人でした。レナッドはこのころから真剣に宗教儀礼での演奏をおこなうようになりました。2002年にマンダレンダーレ・ンビラバイブスのリーダーとしてグランマレコーズよりアルバムをリリースしています。
1975年ごろにはンビラの作成も開始しました。ただし真剣にンビラづくりを始めたのは2003年ごろだということです。
彼は主にダンバツォーコ・チューニングを好みます。これは幼いころからつながりのあるルサぺのチューニングです。そして彼の真骨頂はドンゴンダと呼ばれるチューニングです。鍵盤のチューニングが左右対称になっており、1台が2台分の音を奏でるかのようです。歯は火入れの必要なスプリング材です。

Leonard ChiyanikeLeonard Chiyanike

Munashe Chivese

ムナシェ・チウェセ(Munashe Chivese)
1972年チウォタ生まれ。ジェナ(サル)氏族。
ムナシェはチヤニケと氏族的な親族関係をもちます。彼はチヤニケの甥にあたります。
1977年、母方のオジの影響ではじめてンビラに触れました。1999年から、真剣にンビラの演奏を開始しました。これまでに、L.チヤニケ他、多くのンビラ奏者から曲をいました。2002年にマンダレンダーレ・ンビラバイブスの一員としてグランマレコーズよりアルバムをリリースしています。彼はメソディスト教会(キリスト教)に通いながら、伝統的な信仰も続けています。
2004年からは、ブーレの影響を受けてンビラづくりを開始。様々なンビラ職人から情報を得ながら、技術の向上に努めています。
ムナシェは低音のンビラづくりを得意とします。丁寧に磨き込まれた共鳴板も美しいです。

Munashe Chivese

 

Edson Chivese

エディソン・チウェセ(Edson Chivese)
1976年、マロンデラ生まれ。ムナシェの実弟です。
1983年にチウォタよりリンガ村に移住。カレボーン・プライマリースクールの音楽部に所属し、伝統的なダンスを習う。1998年から、ンビラの演奏を習い始める。影響を受けたンビラ奏者は、L.チヤニケをはじめとする複数のンビラ奏者です。彼は歌とダンスが非常にうまく、リンガ村で、彼に勝るンビラダンサーはいません。2002年にマンダレンダーレ・ンビラバイブスの一員としてグランマレコーズよりアルバムをリリースしました。

Edson Chivese

Tinokosha Bvure

ティノコーシャ・ブーレ(Tinokosha Bvure)
1984年ハラレ生まれ。1988年より現在までリンガ在住。
ティノコーシャはサムソン・ブーレの兄の子です。日本風にいえばティノコーシャはブーレの甥にあたりますが、ジンバブエではブーレの子にあたります。
1996年にンビラの演奏を開始。現在に至るまで様々なンビラ奏者から指導を受けてきました。彼のもっとも大きな師匠はサムソン・ブーレです。2003年から約2年間、当時ハラレに住んでいたブーレのもとでンビラの作成・演奏技術を学びました。2005年からンビラの販売を開始し、現在に至ります。
ティノコーシャの実父は、有名な呪術医(n'anga)でした。1991-1999年の間、ティノコーシャは父のもとで毎週のように憑依儀礼に参加し、ンゴマ(太鼓)を叩いたり、歌を歌ったりしていました。2001年に父が亡くなり、現在は残された家族の世話をしています。
2004年にマンダレンダーレ・ンビラバイブスに入って活動しています。まだ若いですが、彼のンビラの演奏技術や歌唱力には非凡なものを感じます。

 

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